今回は前田利益のお話です。前田慶次でおなじみの戦国武将で、現代では漫画やゲームなどにも登場する人気の人物ですね!
傾奇者で戦も強くとても派手な印象の武将ですが、いざ調べてみると不明な点だらけの人でした。「諸説」がありすぎて、何が本当かよく分かりません。
そこで、宇宙人さんの力を借りて地球の資料に載っている慶次の情報を探してもらいました。晩年、堂森でひっそりと暮らしていた理由なども聞きましたので、最後までお読みいただければ幸いです!
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目次
前田慶次の人物像について
メラムサフラ:こんにちは。
オルアエル:来たよ。
幻朋:こんにちは!今回もオルアエルさんには難しい話になってしまいます…前田利益という戦国武将です。
オルアエル:分かんないよ。
幻朋:ですよね(笑)もしかすると、慶次とか慶次郎という名前で載っているかもしれません。他にももっとあるみたいですが。
メラムサフラ:探しています。そんなに名前があるんですね。
オルアエル:何でそんなに名前があるの?
幻朋:ん〜……当時はそういう風習だったのかなと思いますが、利益は特に色々な呼び名があるようです。
メラムサフラ:前田利益という人を見つけました。
幻朋:ありましたか!良かったです。それではいつものように質問をしていきますね。よろしくお願いします。
出生と亡くなった年はいつなのか?
幻朋:1533年に生まれて、1612年に亡くなったという事ですが、生没年については諸説ありすぎてどれが本当か分かっていないそうです。1541年や1605年というのもありました。資料には何年と書いてありますか?
メラムサフラ:1534年〜1610年とあります。
幻朋:全然違った(笑)では、次の質問に移りますね。
実父と実母について
幻朋:利益の実の両親ついても諸説あるそうで、父は滝川益氏、母にいたっては不明という…。
メラムサフラ:滝川マスシゲと書いてあります。
幻朋:誰?!(笑)マスシゲさん?ちょっと検索してみますね……(スマホで探しました。)あ!いました。滝川益重も戦国武将で、滝川一益の甥。益氏とも言うが別人説もある…。少し混乱してきましたが、お父さんは益重という人なんですね。お母さんの方はどうでしょう?
メラムサフラ:母は載っていません。
幻朋:やっぱりそうなんですね。そして、養父は前田利久です。利久に子供がいなかったので、妻の実家の滝川氏から弟の前田安勝の娘婿に慶次を引き取ったという話もあるそうです。利益は養子に来たんですね。
メラムサフラ:その通りに書いてあります。
幻朋: メラムさんの方には前田利益と書いてあると思いますが、日本では慶次という呼び方が定着しているので、ここでも慶次と呼んでも良いですか?
メラムサフラ:大丈夫です。
幼少期はどのような子供だったのか?
幻朋:慶次の幼少期はどのような感じですか?
メラムサフラ:よくイタズラをしています。
幻朋:小さい頃からそうだったんですね(笑)武芸の練習とかはしていますか?
メラムサフラ:練習はあまり好きではなかったようです。好き勝手やりたい人みたいですね。
幻朋:子供の頃から既に自由な感じですね。
どれくらい傾奇者だったのか?
幻朋:慶次は傾奇者だったそうですが、どれぐらい傾いていたのでしょう?ちなみに信長も傾奇者と呼ばれていましたよね。周りとは違う服装をしていたりします。
メラムサフラ:この方も人とは違う格好をしています。
幻朋:当時の一般的な着物ではない感じですか?
メラムサフラ:この前のツクヨミさんみたいな格好をしています。
幻朋:あのヒラヒラな服ですか?!
メラムサフラ:そこまでヒラヒラしていないですが、そのような感じです。
幻朋:普通の武士の格好ではなさそうですね(笑)他にも奇行やいたずら癖があったそうです。
メラムサフラ:大人になってもかなりイタズラをしています。人に対してイタズラをして、その反応を楽しんでいたようです。
幻朋:この辺は本当に歴史通りなんですね(笑)ちょっとワクワクしてきました!
慶次の性格は?
幻朋:慶次の性格は…真面目なタイプとは違いますよね?今までの戦国武将は大抵みんな真面目な感じでしたが(笑)
メラムサフラ:この方は真面目と言えるのでしょうか…。明るい性格で、ちょっとふざけたような感じがします。
幻朋:陽気な感じですね(笑)楽しそうな人ですね。
オルアエル:変わってるね。
幻朋:他にも良い面はありますか?
メラムサフラ:物事には一生懸命な所です。ちゃんとやる時もあります。
幻朋:ギャップがあって魅力的ですね。
大男?女性にモテモテ?本当は戦嫌い?
幻朋:慶次は大男でとても強かったというのは本当でしょうか?
メラムサフラ:身長は他の人と同じくらいです。戦いはかなり強いです。
幻朋:やっぱり強いんだ!なぜそんなに強いんですか?稽古は嫌いだったんですよね?
メラムサフラ:負けるのが嫌いだったみたいです。戦いを教わるのは嫌だったんです。
幻朋:負けたくない一心で戦っていたんですね。かっこいいです。女性に好意を持たれる事も多かったそうですが、そうなんでしょうか?
メラムサフラ:変わっているので、それが好きだという人が多かったです。他の人より派手です。
幻朋:派手な格好でちょっと変わっていて、戦が強くて女性にもモテる。慶次像にしっくりきますね。しかし、戦いは嫌いでふうてんな人だったという話もあるそうです。戦国の世でそんな事は許されたのでしょうか?
メラムサフラ:嫌いではないと思います。戦いの時は楽しんでいたみたいです。
幻朋:そうなんですね。
前田慶次の人生を追う
益子城を退去した後は何をしていたのか?
幻朋:ここからは慶次の人生を一通りご紹介していきたいと思います。1567年、前田利久には子がなく病弱なため、信長によって隠居させられ、家督を利家に譲る事になります。その際、慶次も一緒に益子城を去ります。
メラムサフラ:追い出されています。
幻朋:熱田神宮には1581年に慶次が奉納したと伝わる「末口」と銘のある太刀が残っているため、しばらく益子城に住んでいた可能性があるそうですが、追い出されてしまったんですね。放浪期間中についても諸説あって、滝川一益の元に身を寄せていたという話もあるそうですが、どんな風に過ごしていたんですか?
メラムサフラ:色々な家を渡り歩いています。
幻朋:どこかの家来になっていたんですか?
メラムサフラ:家来とかではなく、普通に暮らしています。
前田利家に仕える
幻朋:1581年頃に前田利家に仕える事になります。ここで仕えるようになって、武将になったんですか?
メラムサフラ:1580年ですね。前田利家と書いてあります。家来みたいな感じですね。
幻朋:1580年からなんですね。
慶次はなぜ利家の元から出奔したのか?
幻朋:1590年、豊臣秀吉の小田原征伐が始まり、利家が北陸道軍の総督を命じられて出征する事になったので、慶次もこれに従いました。しかしこれ以降、利家と仲違いしたため、または利久が亡くなった事をきっかけに前田家と縁がなくなり出奔します。この時、慶次の妻子は一緒に行かなかったそうです。
メラムサフラ:色々もめています。
幻朋:何があったんですか?
メラムサフラ:イタズラをしているからです。
幻朋:やっぱりそれが原因なんですか(笑)もしかして水風呂事件ですか?創作話かもしれませんが、後でそのお話もしようと思っていました。
メラムサフラ:水風呂に入れたというのもありますが、それだけが原因じゃないです。
幻朋:本当にやったんですか?!すごい(笑)
メラムサフラ:利家の履き物を隠したり、トイレに閉じ込めたりもしています。
オルアエル:やりすぎだよ。
幻朋:普通に笑ってしまいました(笑)それはもめますよね。なぜ利家にイタズラをしていたのでしょう?
メラムサフラ:利家の事をあまり気に入らなかったようです。それで、イタズラをしてもめて出ていきました。
出奔した後は何をしていたのか?
幻朋:その後は頭を丸め、穀蔵院飄戸斎(こくぞういんひょっとさい)という名前で、京都で浪人生活を送ったそうです。
メラムサフラ:そういう情報はないです。
幻朋:載っていないんですね。なんでも、古田織部など多数の文人と交流して、文化活動を行っていたそうです。和歌や漢詩、源氏物語などに通じ、教養があったとされます。
メラムサフラ:文化活動にはあまり興味はなかったようです。
幻朋:そうなんですか?何となくやっていただけなのかな(笑)前田家から出奔した後は何をしていたんですか?
メラムサフラ:しばらく旅をしています。
幻朋:自分探しの旅みたいな感じですかね?
メラムサフラ:目的はないみたいです。
なぜ大名からの誘いを断っていたのか?
幻朋:この頃、慶次の活躍を知る大名からたくさんの誘いが来ていましたが、断っていたと言われています。それはなぜでしょうか?
メラムサフラ:誘いは受けていますね。自分の好きにやれないから断っていたみたいです。
幻朋:自由が良かったんですね。あと、慶次の嫡男の前田正虎が金沢に戻るように説得していましたがそれを断り、慶次は正虎と縁を切ったそうです。
メラムサフラ:断っていますが縁は切っていないです。
堂森で隠棲していた理由
幻朋:1598年〜1600年に上杉景勝の元に仕えます。そして長谷堂城の戦いで殿(しんがり)を引き受け功績を残しました。かなり厳しい状況でしたが、少人数で奮戦したそうです。
メラムサフラ:1598年で合っています。戦いの実力はかなりありました。
幻朋:この撤退戦は、今でも語り継がれるくらいすごかったそうです。その後は西軍敗退により上杉氏が30万石に減封され、米沢に移されました。慶次はこれに従って米沢藩に仕え、米沢近郊の堂森(米沢市)で直江兼続と共にひっそりと生活していたそうです。兼続と史記に注釈を入れたり、和歌を詠んだりしていたそうですが、本当かどうかは不明です。
メラムサフラ:負けたのがよっぽど悔しかったようですね。それで引きこもってしまいました。
幻朋:そうだったんですか…負けず嫌いなんですもんね。
メラムサフラ:恥ずかしいのもあって、あまり外に出たくなかったようです。
幻朋:注釈を入れたり和歌を詠んだりしていたのは本当ですか?
メラムサフラ:そこまで興味はないけれど見たりしています。やる事がなくて仕方なくやっていました。イタズラをする事もなく、何もせずに過ごす事が多かったみたいです。
幻朋:気力がなくなってしまったんでしょうか。もしくはゆったりと過ごしていたのかな。
直江兼続とはなぜ仲良くなったのか?
幻朋:慶次の元を訪れていた直江兼続とは仲が良かったそうです。
メラムサフラ:直江兼続という人とはかなり仲が良かったみたいです。
幻朋:それはなぜですか?
メラムサフラ:似たような性格だったためと書いてあります。
幻朋:兼続も明るい感じの性格だったんですね。唯一分かり合える存在だったのかもしれませんね。
慶次の最期
幻朋:1612年、病で亡くなります。遺体は一花院という所に葬られましたが、一花院は現在廃寺となっており、当時の痕跡は残っていません。現在は堂森の善光寺に供養塔が建てられているそうです。
メラムサフラ:病気というより寿命だったようです。自然と弱っていった感じです。
幻朋:そうだったんですね。遺体はどこにあるか場所は分からないですよね?
メラムサフラ:今はもうその場所はないみたいです。
幻朋:でも、現在は善光寺でちゃんと供養しているようなので良かったです。
慶次は何を望んでいたのか?
幻朋:慶次に付き従った野崎知通という人が「謂あって浪人となりたまへり、故に一つの望みあり、然れも末行し次第にとろうの理によりて秀日なし」と語っていたそうですが、その望みが何かは分かっていないそうです。慶次にはどのような望みがあったのでしょうか?
メラムサフラ:これは旅をしている時ですね。
幻朋:旅をしながら何か思う事があったんですね?他の武将は天下統一をしたいとか、何かしらの目標や願いがありましたよね。
メラムサフラ:慶次は自分の居場所がほしいと思っていました。
幻朋:自分の居場所……よく考えてみたら、養子に来て益子城を追い出されて、家を転々としているし波乱万丈かもしれませんね。
メラムサフラ:確かに色々な所を回っていますね。
オルアエル:可哀想なのかな?
幻朋:なぜ疑問形なんですか(笑)
オルアエル:だって悩むよ。自由すぎるからね。
幻朋:自由に縛られずに生きたいと思う反面、寂しさとかもあったかもしれませんよ。慶次が自分の居場所がほしいと思っていたなんて、考えた事もありませんでした。傾奇者で明るい性格というイメージが強いですからね…でも、上杉家に仕えて直江兼続と親友になれて良かったのかな。
前田慶次の逸話
利家を水風呂に入れる
幻朋:おそらく創作された話もあるかもしれませんが、慶次にまつわる伝説はたくさんあるそうです。いくつかご紹介しつつ、本当かどうかをお聞きしたいと思います。まずは水風呂事件ですが、これは本当だったようですね(笑)
メラムサフラ:やっています。
幻朋:慶次は日頃から人を小馬鹿にする悪い癖があったため、利家が注意をしていました。それに対して良く思っていなかった慶次が、謝罪とおもてなしをすると言いつつ、利家を騙して冷たい水に入れたそうです。この時に馬に乗って逃げましたが、それが有名な松風と呼ばれる馬です。
メラムサフラ:馬は出てこないですが合っています。出て行ったのは、これだけが原因ではないです。
幻朋:でも、これももめる原因ですよね(笑)
メラムサフラ:かなり怒られています。この後に、お詫びにお茶を入れようとして熱湯を入れてまた怒らせています。
幻朋:水風呂に入れただけでもヤバイのに、更にまたやっている!(笑)強いですねぇ。
オルアエル:イタズラしすぎだよね。
秀吉が開いた宴に乱入
幻朋:豊臣秀吉が諸国から大名を呼び、大阪城で宴会を開いていました。そこへどうやってか慶次が入り込み、猿面をつけて扇を振りながら、おかしな踊りをしました。そして、大名たちの膝の上にどんどん腰掛けていくという事をしたそうです。誰も怒り出す者はいなかったそうですが、慶次は上杉景勝だけは避けて次の人の膝の上へと乗りました。景勝の凜然とした態度を見て、どうしてもできなかったそうです。
メラムサフラ:これもあります。
幻朋:この話もあるんですか?!慶次はどうやって入り込んだんですか?偉い人しか呼んでいないはずなんです。
メラムサフラ:勝手に入っています。
幻朋:ダメじゃないですか(笑)どうして怒られなかったんでしょう?
メラムサフラ:みんな諦めています。
幻朋:慶次はこういう人なんだと思われていたんですね。有名人ですね。
3本の泥大根
幻朋:上杉景勝の元に仕える事になり初めて行った際、泥の付いた3本の大根を持参して、「この大根のように見かけはむさ苦しいが、噛みば噛むほど滋味の出る拙者でござる」と言ったそうですが、この話はありますか?
メラムサフラ:大根の話は見つからないです。
幻朋:そうでしたか、分かりました。
傾奇御免状
幻朋:豊臣秀吉が慶次の噂を聞いて、趣向を凝らした格好で楽しませろと呼び出しました。慶次は髷(まげ)を頭の片方に寄せるという、おかしな格好で現れました。秀吉に平伏した際、髷のみを正面に向けて顔の向きはそっぽを向くような形になりました。秀吉がそれは何だと聞くと、曲がっているからマゲだと答えたそうです。これに大ウケした秀吉は褒美に馬を一頭を与えると言うと、慶次はいったん立ち去り、すぐに正装をして現れて深く平伏しました。これに感激した秀吉は「今後は好きな様に傾くが良い」と大名達の前で褒めたそうです。
メラムサフラ:これも載っていないです。
幻朋:なかったですか!有名な話なので残念です。創作がどうかは分かりませんが、もしかしたらこれも本当かもしれませんね。これで私のお話は終わりです。
オルアエル:利益変わった人だよ。
幻朋:自由に生きている感じですよね。
メラムサフラ:かなり変わった人でした。
幻朋:とても自由ですが、色々旅をしたりして慶次なりに思う事はあったのかもしれません。
メラムサフラ:このような人は貴重な存在だったかもしれませんね。
幻朋:誰にも真似できないですよね!今回もありがとうございました。またお話ししに来ますね。
メラムサフラ:またお待ちしています。
オルアエル:変わった人ばっかりだったね。またね。
前田慶次についての情報は以上となります。この回のオルアエルさんはあまり話に入ってこず、皆さんからいただいたプレゼントを眺めていたようでした。メラムさんと話をしている最中に、後ろの方をス〜っと移動しているのが気になりました(笑)
さて、慶次のお話はいかがだったでしょうか?意外と史実通りな印象があって、やはり慶次は傾奇者だったんだなぁと思いました!
自分の居場所がほしいと望んでいたようですが、皆さんはどんな風に思いましたでしょうか?旅をしている最中、堂森で暮らしていた日々、慶次はどんな事を考えて生きていたのでしょう…。